川原正方

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売野機子短編劇場

『薔薇だって書けるよ』が手元にないことを惜しく思う。もう一度、売野機子さんの漫画を読み直したくなった。もう少し気取った言い方をすると、もう一度売野機子さんという作家の作品に出会い直したくなった、となる。というのも、売野さんが『売野機子短編劇場』にあるようなダーティさや「痴者の街で」のような構成の漫画を描く作家だという印象がなかったからだ。

 

思えば、ダーティさは以前からあったように思う。ただそのダーティさはある程度デフォルメされたり、作家性によって柔らかい印象になっていたように思う。それを『短編劇場』では、身近にある題材で、実感を伴う感情を想起させるような装置として使われている。これも「痴者の街で」で強く思った。帯には「売野機子再入門」とあるが、まさに自分はようやくもう一つの売野機子入口を知ったのだという気待ちになる(『薔薇だって書けるよ』の読み方も変わるだろう)。

「成人式」の、家庭の音なき不和・不成立によって、ゆめの思う理想=普通からズレた道を進んでしまった痛みと、ズレの受容による癒しの描写は個人的にたいへん好みだった。ドラッグを食わなかったのも、身体を許すことの基準も譲らなかった彼女が、自分の化粧を「きたねえ」と思い、普通の女の子達を「千代紙」と表現するところなんかは、ゆめという人間の「人ととしてきちんとそこに生きていた感じ」、実在感を強く感じる。こういう実在感がとても好きだ。リアリティがあるとかそういう言葉でも伝わるっちゃ伝わるかもしれないけど、それよりも強い、売野さんが本当にゆめのことを考えて描いてるんだという、そういう厚みや深さを感じて本当に良いと思う。まあその実在感というのがなんで出ていたかというのを書きたいのだけど、おそらくゆめはどこかで自分の周りを見下しているようなところがあって(それはヤンキー、不良、そういった優等生や「普通」ですらないものを)、それを「千代紙」のコマまで描写しないのがとても好きだ。あとはやっぱり、そういう価値観を育んだ家から飛び出したけど捨てきれず、歳をとることでその価値観も、現実とのギャップも、過去の涙もひとまず「大丈夫」になる瞬間を書かないのがとてもいい。なんとなく実感を伴っているような気がするのは、これを書いている自分にも似たような経験があるからだろう。その「大丈夫」はゴールテープが用意されてはいない、だからカタルシスが漫画に生まれづらいのかもしれないが、この作品では傷を深さを提示するのと同時にシームレスに訪れるはずの「大丈夫」をカタルシスに変えている。

「神さまの恋」は個性が形成してしまった外圧に、その人格や役割を振る舞うことを期待され続けて、結果として自らの人生の何かを諦めざるを得なくなる嗣子が変化を期待して「役割」を実行しない。その前に嗣子が妹の一言によって決壊するページがかなり良い。姉の個性を褒める妹の言葉(そしてそれに準ずる他人の言葉)は、静かに嗣子を孤独に追いやった。セリフが物語の中で通用するセリフと外で通用する、ダブルミーニングになっているのも良い。この話はたぶん「成人式」と双生児になっている。嗣子の小さな反逆はゆめが起こせなかった反逆で、大人になれば「大丈夫」になったゆめに対して、嗣子も走り続ける=変質を続けることで「大丈夫」を求めようとする。最後のそのコマの、暗い中でひとり光る嗣子の背中のかっこよさが際立つ。この漫画は肉体的な動がほとんど排除された形で描かれている。最後の「逃走」に向けて用意されているかのように。最後の最後でみせる躍動がかっこいいのかもしれない。あと「愛せる」とするところを「あいせる」とするのも、なんかいい。これはもうなんかいいとしか言えない。

いちばん残酷な話だなと思ったのが「航海」。クァーシンが日々の生活に追われて幼いズーハオたちに知的な資本の蓄え(あえてこういう言い方をする)が追い越されようとしている。同じ町=共同体で暮らす人間に、せっかくの八元を渡してしまう。これは愚かなことではなくて、仕方のないことだし、後者に関してはとても優しく誰もが持つべき性質だとも思う。クァーシンがジャイィおばさんのところで髪を染めて、その姿を見た外部の人間による言葉は本当に言いようのない怒りや許せなさを感じる。外部がクァーシン=発展途上国に求めるものが可視化され、クァーシンの愛する豊かさが侵略されてゆく。「モデル」よりも「ミシン」や「いなか」を愛するクァーシンの行き先は、明らかに外部のものと違う場所にある。それを奪う権利は誰にあるのかと、なんとも言えない気持ちになる。でもそれはそれとして便利になったほうがいい。クァーシンたちのお給金をあげてほしい。

 

以下は余談だが、「運命とか信じるきみだから」の人物の描き方が、ものすごいよしもとよしともを思い出させる。あと「ロボット・シティ・オーフェンズ」めーっちゃくちゃ好き、続き読みたい。