川原正方

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子どもの王様

 ネタバレ。

久しぶりに読んで、勢いで書いてしまった。うーん、本当にいい小説。殊能将之氏、まだ全然書けるものがある作家だった。

1/19の氏の誕生日を前に投稿。

 

小学生の頃に読んだものだから、十数年ぶりの再読になる。正直その頃の感想は覚えていないが、今回読んで思ったこの小説の仕組みのひとつは「主人公が犯人」だということ。

虚構の事件は楽しい、なぜなら虚構だから。これがミステリの楽しみをメタ的に見た読者の姿で、虚構自体は悪いもクソもない。

それに対して現実の事件は辛く悲しい、なぜなら現実だから。

作中では現実と虚構が並列の場にある。厳密には、ショウタはその二つを区切れていないのだと思う。

パルジファルという虚構の「敵をやっつける」に対するあこがれは、現実に起こっている事件の解決になると同時に虚構に身をやっしたショウタを作り上げる。

テレビの中のヒーローであるパルジファルとショウタ達の名前が同じカタカナ、つまり並列に表記される細部から、ショウタが子どもの王様を「やっつけ」て罪悪感を持たず、パルジファルの歌を口ずさんで終わるオチなど、子どもの持つ悪気のなさを思わせると同時に虚構の中へ飛び込んでいくような勢いを感じさせる。

自分が初読した子どもの頃は、この仕組みに気づかなかったと思う。

悪い奴をやっつけても良い、ひいては子どもの王様を殺しても良いと判断し、実行してしまうことは、イナムラさんの泣き顔を見た時の気持ちをもう一度味わうことだと思わないのは、悪い子どもだからではない、という視点は、20歳もとうに越したこの歳になって得たものだ。

 

 

また、ページ数を使った演出は、これは殊能センセーわざとだと思う。単行本でいうと223ページ、文庫本でいうと169ページで、紙媒体の小説や漫画だからできる仕組みだと思う。

それと単行本94ページ、文庫本73ページで、トモヤの描写→パルジファルの想像→それを打ち切るショウタ、という流れの文章なんかは、上手いなあと感心する。

これらは明らかに「意識の流れ」的な書き方を意識していて、同時に「信頼できない語り手」でもある。内容も、ミステリの分野では「叙述トリック」にならないけれど、読書の楽しみとしては謎解き的なギミックを含んでいるという仕組みだ。

その理由としては以下。

特に感心したところとして、ギャディス『JR』の「大人になったら何になる気?」「子供かな」というセリフを踏襲し、ショウタが同じ問いに「大人になりたい」と答えたものと、字面では対極になっていながら意味自体は一緒、という仕組み。 大人になりたい=子どもの王様になりたくない、と思っているのは判るんだけど、ショウタは具体的な行動や態度を指して「○○になりたい」「なりたくない」と言っているわけではない。彼の中で、「大人」もやはり具体性がなく、虚構でしかないのだ。

子どもの時にこれを読んだら、その字義通りに受け取るかもしれない。でも読書への姿勢が変わるとともに、このセリフの受け取り方が変わってくるだろう。

この小説は「主人公が犯人」でありながら、「読者が探偵」というミステリに絶対必要な要素をもつ。答え合わせは、本を読み続けていればいずれ辿り着くというわけ。

 

どこかで「この本は評価が良くない」とあった気がするけど、読書の才能がないひとはもっと鍛えなくちゃダメですね(全開の煽り)。まあ信者だから許してほしい。小学生以来の読者なんで。