川原正方

ɐʇɐʞɐsɐɯ ɐɹɐɥɐʍɐʞ

5/1/22

以前から感じていた、ポケモンGOをプレイするひとへの違和感の何割かが、以下のようなものじゃないかとわかった。
子供のころの友人であったポケモンは、必ずと言って良いほど〈大人〉によって制限されてきた。「ゲームは1日1時間」とか、そういう事で。それで、いざ自分が大人になると時間・金銭的な都合でポケモンどころじゃなくなったりする。そんな中で、〈大人〉たちが無邪気にポケモンをプレイしている……そういう事への反感が、自分にあるんじゃないか。


気が早いので、朝から今日の晩飯の事を考えている。というのも、今夜は同居人が実家に帰っていないから。そうすると、なんだかやらなきゃいけない事がたくさんある気がしてくる。自分一人で食うための好き勝手しちゃう料理とか、買ったCDをPCにインポートしてiPhoneに同期させたり、夜更かしして酒飲んでゲームしたり。ようするに、好き放題ダラけられるというわけ。
同居人がいるときは、気づく限りは家事の負債を明日に残さないようにするけど(まあ、それも難しいんだけど)、ひとりだと後ろめたさがなくサボれるね。まあ、明日の自分が痛い目見るんだけど。

クリスチャン・マークレー展を観てきた。
ここ最近、美術展に行くと写真を撮ってる客の多さに閉口する。これは自分のこだわりなので、美術館側が撮影を許可してれば文句いう筋合いもないかもしれないんだけど、でっかいキャンバスに描かれた絵を見てるところにスマホ持った客が来て「おー、いいじゃん!」とか言って写真撮り始めたときには、さすがにどうなの?という気持ちになった。「いいじゃん!」ってお前は誰?
まあ、それはいいんだけど、マークレーの作品を見て「じゃあ自分はどうしよう?」と思った。マークレーは漫画の擬音とペインティングを大きなキャンバスに描いた「アクションズ」は、キャンバスに打ちつけるようにぶつけられた絵具の上に、補助線のように添えられた激しさや勢いを表す擬音で構成される。まあ、これを観てる最中に「おー、いいじゃん!」という客が来たのだけど、それも相まってなんとも言えない空虚さを感じた。ここには本線がなく、補助線しかない。器はあるが、中身はない。表現ではなく、記号だけで構成される作品なのだ。これはマークレーが空虚さを表現しているとかそういうことではなくて、この作品が出てくることの現代の空虚さというようなことも思った。
もちろん、そんなことは今では当たり前で、もう誰でも取り上げている問題だ。情報化社会とか、そういう。黒毛和牛ブランドに喜ぶ自分もいるから、まあさもありなんというところだ。
でらそれに対して「体験こそが大事だ」と考えたり、「事実こそ大事だ」と考えたりする。しかし、いまは「体験」すらも空虚である。交換可能で、どこにでもあり、レディメイド。お金を払えばある程度の都市圏であれば経験できることがたくさんある。
そうなると「事実」だけが身のある、交換不可能な「本線」ということになる。だが、個人の主観、主義によって「事実」は異なる。「コロナはただの風邪」と主張する人がいい例だろう。
結果として、自分の手元に残る「本線」とは何か? それがたくさんあれば自分は満ち足り、上昇するのか?
そういうわけではないと思う。残るのは、ごく個人的で些細な「事実」だろう。「今晩なにを食べよう」「あの漫画が面白かった」「仕事頑張るぞ」「この服は着づらい」そういう、些細で、為にならない、だが生活の中には必ずある事実。それだけが自分の手元に残る。
それ以外は?
それがわからない。

その日、都立現代美術館の3階では、久保田成子展が催されていた。そこで見た「Video is Vacant Apartment」という一文を見て、これがマークレーかもしれないと思った。

一方で「サンプリングは楽しい」というのもある。「マンガスクロール」なんかはその最たるものだと思う。「空っぽでも面白ければいいじゃん」娯楽的な漫画が好きな自分なんかは特にそう思う。