川原正方

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『愛してるぜベイべ★★』、『うさぎドロップ』、『丘の上、ねむのき産婦人科』

『愛してるぜベイべ★★』、『うさぎドロップ』、『丘の上、ねむのき産婦人科

 

先日、ふと久しぶりに読みたくなって、槙ようこ『愛してるぜベイべ★★』を買ってきた。読んで思ったのは「子供のころ読んだ時よりシリアスな話題が多いな」ということ。

 

が、考えるとシリアスでしかないわけだ。なにしろ育児放棄、育て親の失踪から物語が始まるのだから。

親に捨てられた子供・ゆずゆを高校生・結平が育てる。そこにはもちろん結平の家族もいるわけだが、漫画では結平によるゆずゆとの交流と、それによるゆずゆの状況の変化が語られる。

状況の変化、という書き方をするのは、ゆずゆは「心境」を描写されない。かならず状況(外圧)があり、心境の吐露があり、そして初めて読者はゆずゆの内面を知ることができるからだ。

色々あってゆずゆは結平たちの家を出て、本当の母親のもとに帰ることで漫画は終わる。

この時の、本当の母親の描写は「こいつまずいだろ」という様子なので、今の自分からすると「こいつに子供を渡すのは普通は考えられない」と思う。だが、ハッピーエンドで物語は終わる。

なんでだろう、と思うわけだが、作者のあとがきを読んで、ちょっと納得した。手元にないので大雑把に書くが、周囲から、『愛してるぜベイべ』のその後の話を書く気はない、なぜなら「あんな終わらせ方をした」から。つまり、『愛してるぜベイべ』は「家族の回復」的な話ではなく、「子どもへの祝福」の話なのだ。それは、母親のいない心によって、ゆずゆが本当の母親に引き渡されるシーンからもわかる。

 

似たような漫画を連想する。『うさぎドロップ』だ。この漫画も最後が印象的だった。りんが育ての親の大吉と結婚をする、それも出産を見据えての。

りんは大吉の大叔母にあたるわけだから、ぎりぎり近親婚ではないように思えるが、その大叔母を五歳の頃から成人するまで育てたのが大吉だ。「三親等内の傍系血族との婚姻」が近親婚だとすると、制度(比喩)的には近親婚ではないが、概念(実際)的には近親婚であるといえる。

そしてこの漫画もりん=子どもの希望を叶えるラストなのだが、どうも『愛してるぜベイべ』のように「子どもへの祝福」を描いているようには思えなかった。

りんが成人するまでを描いている漫画だからそう見える、というのもあるかもしれない。けど、一番気になるのは、りんが大吉を選んだ理由が「子どもを産んでも大切に育ててくれるから」だったことだ。

りんも本当の母親に対面する機会があるわけだが、しかしその女性に対し母親という実感はわかず、逆に大吉への感謝が募る描写があったと思う(数年読んでいないのでうろ覚えだ)。

大吉に対して、行動と結果からその気持ちを汲み取った。

つまり、りんは親族ではなく家族を選んだ。そしてゆずゆはその逆だったというわけだ。

 

『丘の上、ねむのき産婦人科』という芝居がある。DULL-COLORED POP率いる谷賢一作演出ものだ。妊娠・出産に関する連作短編といった趣の作品で、その中でとくに覚えている話がある。

お金持ちの老夫婦が、不妊治療をする話だ。お金持ちなので、不妊治療にどれだけでも費用をあてることができる、という前提なのだが、治療方法を終えるごとに目が張るほどの金額が提示される。

しかし、もちろんのこと、この夫婦……というか妻にとって問題は費用ではなかった。治療を続けても妊娠をしないことであった。

 

その苦しさの中、妻は夫に「どうしてこんなに子供が欲しいと思う? 考えてみて」と尋ねる。夫は「ど、どうして?」と混乱するが「どうしても!」と妻は畳み掛ける。

 

このシーンを見て、自分は次のように解釈した。妻は「どうしてだと思う?」と尋ね、鸚鵡返しするように「どうしてそこまで妊娠したいんだ?」と聞き返し、「どうしても出産したいの」と返事をする。

しかし、友人は次のように解釈していた。「どうしてだと思う? 考えてみて」「どうしてそんなこと考えなくちゃいけないの?」「どうしても考えて欲しいから」

多少のずれだが、広がりのある、良い台詞だと思った。そこに作意がなく、偶然そうなったとしても、かっこいい、素晴らしい台詞だと思った。うろ覚えなので大意だけど。

そして、同時に、自分は「わからない」と思った。どうしてそこまでして子どもが欲しいのか。

老後の面倒を見てもらうため?

日本という国を持続していく納税者を増やすため?

一度は産んでみたいから?

そんな理由ではないと思う。

 

自分は、同居人と子どもを儲ける気はない。それは同居人と話し、共通した意思を確認し、共通理解としてある。

だから、どうして子どもが欲しいのかがわからない。

同時に、どうして子どもが欲しくないのかもわからない。

他人の家に行くと、たまに子どもがいて、その子らと遊ぶのが好きだ。馬鹿みたいにはしゃぐ。すると子どもたちが笑ってくれる。その程度には、子供は嫌いじゃない。

嫌いじゃないのにどうして欲しくないんだろう、子どもを作らなくちゃ殺すとか、税金を取る、とか言われても、じゃあ税金払いますよ、と思ってしまう。殺されるのは嫌だけど、頑張って抵抗する。

まあ、それで、自分がなんで子どもが欲しくないのか、いまいちわからない。経済的に育てられないとか、仕事が忙しくてそれどころじゃないとか、そういう理由を差っ引いても、べつに欲しくない。

うちの親も、「さーて納税者を増やすか」とか、「老後のこと考えて投資しとくか」とか、そんなことを考えて出産してなかったと思う。

どちらかというと「いっちょ産んどくか」とか、そういう方が近かったんじゃないかと邪推する。

ひとは、選べることを選ぶことしかできない。トートロジーだが、しかし、こと人を産むことに関しては大抵の場合そうである。自分は生まれることを選べない。だから、生まれた後、生き続ける/死ぬを選び、産む/産まないを選ぶことしかできない。前者は遠回しな方法で前者を選び続けていても限界がきて死ぬが、後者は別だ。保留を含めても、配偶者がいなくても、結果として選ぶことになる。「不妊」も産まないことになり、望まぬ出産も産むことである。誰彼構わず、それなりに生きたら選んでしまうのだ。

そして、多くの人は産むことができる。だから産む。あえて無機質な表現をするが、ひとは機能があるから使用するように、子どもを産むのだと思う。それは生き物の本能と表現してもいいだろうけど。

ということは、自分(と同居人)はなんだかんだで、本能の一部が欠落してるということになる。

ここでりんとゆずゆの話に戻るが、彼女らはどうして家族/親族を選んだのだろう。ゆずゆは、物語の中でトラウマのように「母の不在」を背負っており、そのため親族(ゆずゆの場合、父は死去しているため元から不在)を求めた。りんは(大吉への恋慕とともに)相互扶助の場として家族を求めた。

『丘の上、ねむのき産婦人科』の老夫婦は、老いて、身体の限界が近づいても「どうしても!」出産を渇望した。

 

不妊には治療法がある。つまり、子どもを「産めない」ことは「不妊症」という病気とされているのだ。

では、「産まない」ことは病気なのか? そして「産む」ことは?

正解は「病気じゃないから治らない」だろう。

極論を言えば、その点において、「産む」ことと「産まない」ことは一緒だ。

 

「家族がいない」ことと「親族がいない」ことは病気云々の問題ではないが、それは当事者への外圧であり、場合によっては他者による補助・介入という「治療」が必要になる。

では、「家族はいらない」「親族はいらない」ひとへの「治療」は必要か?

自分にはわからない。

けど、日本国を維持するため、納税義務を背負った私たちの子どもたちが解決してくれることだろう。