川原正方

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お気持ち表明、日録

『あなたを選んでくれるもの』(ミランダ・ジュライ著、岸本佐和子訳、新潮社)を読んだ。訳者あとがきを読んで初めて、あの(個人的には、マイク・ミルズの奥さんの)ミランダ・ジュライ氏だと気付いた。そう知ると、この本を読んでる際に感じた違和感に対して折り合いをつけることができそうだった。

 この本はミランダ・ジュライ氏が作家活動から一度距離をおいて休憩をするような形で、フリーペーパーに売買広告を出す人たちを訪ねてインタビューをする、という内容で、読みはじめは生活史的なことになるのかと思っていた。

読んでいくうちにタイトルが気になってくる。「選んでくれるもの」って、あんたが広告をみて電話かけて物書いてるんじゃない、選ぶのはあなたで「くれるもの」ではないよ、と思う。

そういった態度を意識して読んでしまう。つまり、著者が見知らぬ世界へ「観光」に行き、安全な場所から面白い場所をまとめて発表するような。もっとひねくれた見方をすれば、可哀想なものをみんなに届けようとする「正しい精神」を感じる。それを言葉には決して表さない「真摯さ」と共に。

でも、ミランダ・ジュライ氏ならそんなこともするだろう……と、著者のことなんかよく知っているわけでもないのに、そんなことを思った。マイク・ミルズが彼女のことを「ワイルドな人」と表現していたのをどこかで見聞きしたからかもしれない。

そういう、「ワイルドな人」は自分の周りにもいて、その独特の「感じ」をリアルに想像できるから、なんとなく納得をしてしまう。自分の知っている「ワイルドな人」は、性格は内向的なのに行動は外向的という性質で、ミランダ・ジュライ氏も、読んでいる限りはそういう人な気もする。

それは上記の本が、途中からインタビューをする人に対する興味よりも、その時に取り組んでいた映画や人生のことについて書き始めることからも読み取れた。インタビュイーに触発されるようにして、映画や自らへの思索が「無邪気」に始まる。

そう、自分の知る「ワイルドな人」たちは、とても無邪気だ。そこには何の企みもなく、そう思うからそう行動し、そしてそう思う。

悪いことではない。けれど、その人のようになりたいかというと、そうは思わない。

どうすれば自分が関わるひとたちすべてに、優しく、抑圧せず、寛大に接し、自由に愛せるかということを考える。

「ワイルドな人」たちはそれをできるだろうと考えることもあれば、そうではないということも考える。

 


 


祖父の法事のため地元に帰る。会いたい友人はみんな用事があって会えず、目当てのカレー屋も閉まっていた。残念に思いながら、生まれて初めて若鯱家で食事をした(後ほど親に確認したら、何度か若鯱家へは行ったことがあるはずだ、と言っていたが、覚えてないし信用もしていないので、実質初めて)。

メニューの表紙には「丹精込めて作っています」的なことが書いてあった。

「丹精込めて」というのがマニュアル通りにという意味なら、それはきちんとやってもらわなきゃ困ると思う。

 


 


さすがに三回忌ともなると、全員がヘラヘラしている。寺の、筆で書いたような案内の字が歪みまくっていて酷かった。法要後の説教も、芸人のネタの枕に入る前段階くらいの中身のなさで、この人は袈裟を来たただのおじさんなんじゃないだろうかと考えていた。

 


 


墓参りを済ませ、祖母が仏前に団子を備えて、手を合わせるとすぐに団子を皆の前に出し「みんな食べて」と言う。無味だった。いとこの次男坊がふたつも食わされていてすこし気の毒だったが、祖父の供養にもなるという祖母の言葉を団子とともに飲み込んだ。

 


 


食事を終えると、父親がレストランのマネージャに話しかけられていた。このレストランは何度も使っていない、というか下見のために一度訪れたのみだ。食事の提供が遅かったし、そのお詫びだろうかと思っていると、戻ってきた父親が「ここのスタッフ、この数ヶ月の間に全員辞めて、いま新しいひとを揃えたところなんだって。予約してきたひと全員に挨拶してるんじゃないかな、誰が顧客か判らないから」と言った。厨房もホールも全部入れ替わったというので、なんとなく色々なことを想像してしまう。スタッフ全員金持ってとんだりしたんだろうか。それならちょっと面白いと思う。

 


 


帰ってシャワーを浴び、飯でも食べに行くかと思って外に出る。MとKとのLINEが動いていたので「酒飲みに行かないか」と誘うと2人とも来る。嬉しくなって、一人で行こうか迷っていたビアバーに向かう。

そこで近況を話しながら飲んでいたのだが、妙にテレビがうるさい。酒を飲んでいる時にテレビを流している店はあまり好きではない。特にひとと話しているときは。テレビの内容がくだらないというのもあるし、単純にうるさいというのもある。そして「テレビ的なもの」を馬鹿にして、批判しているところもある。茶番でくだらない、旧態依然としたやりとりを再生産し、新しく出てきたものも「テレビ的なもの」のサイズに形成し直して消費する。実に悪質でくだらない、と思うと同時に、自分もそこに片足なり半身なり、あるいは全身どっぷり浸かっているな、と思う。コインの裏表、という意味で。

テレビを見ていると、報道番組で、病院での医療の特集をやっていた。大変だし、臨床も研究も、いま医療医学は本当に大変だと思う。その特集を見て、店主が「ホントに……」と吐き捨てるような口調で言った。「煽りすぎなんですよね。お客さんでお医者さんの人がいますけど、何でこんなに騒いでるのか判らないって言ってますよ」。たしかに医者から言わせるとそうなのかもしれない。専門なら尚更なのかもしれない。

けど、コロナ禍と呼ばれる現象は、感染力の強さや症状の内容や死亡率だけが引き起こしているものなんだろうか? たぶん違う。

これは先程あげた「テレビ的なもの」が大きく関わっているような気がするマスメディの弊害とかそういうことではない。

吉本隆明とか、そういう昔の人たちが言ってた「大衆」っていうのがあって、その人たちも生活をしていてものを考えている。今これを書いている自分のように。そしてこれを読むあなたのように。そういう自分やあなたみたいに生きるひとたちが面白いと思ったり、感動して泣いたり、許せないと憤ったりする、そういうものを映すのがテレビで、そういうメディアや作品やまとめ記事やTwitterのトレンドや色々……それを自分は「テレビ的なもの」と呼んでいる。なんかもっと高級な言い方があるかもしれない、東浩紀とかそういうひとがなんか言ってそうだけど、まあ自分はアホでバカなので知らない。とにかく、そういう、一人ひとりの意思のようでいて大きな一つの概念で、大きな一つの概念のようでいて一人ひとりが生み出した考えや欲望の集まりであるそれ……カビのようにそこら辺にあって群れをつくる……は大きな大きな形を作ったり、はぐれた一つだけの小さい点を見せたりする。カビ菌のように。でも見る場所を変えると、小さい点が大きな形の中心部だったり、大きな形は他のものより小さく見えたりする。そういう昔っから誰かが何度も言っているようなことがある。

だから、コロナ禍という大きな形は何で形成されているんだろうか、と考えると、covid-19の症状への不安や死そのものへの恐怖はもちろん、食い扶持や生活の変化やもっともっと色んなものへの不安が多いと思う。

そして、テレビはその不安=カビ=大衆の意識を映してるんじゃないだろうか。テレビやネット上のcovid-19への報道や関心は「煽って」いるのではなく、私たちの不安をそのまま映し出しているのだ。「テレビ的なもの」はいつだって私たち自身が生んだカビで出来ている。それが大きければ大きいほど、嫌でも目に入る。気持ちよく酒を飲みたい時にでも。

ただまあ、だから好きなことをしていこうと思える。一方では自分が少数派でテレビに映らなくても、どこかに知り合いはいることを知っているから。

「年間で言うとコロナで死んだひとより自殺する人の方が多いじゃないですか」という店主の向かい、自分の隣には、ひとの死が数で数えられる重さではないことを知っている友人がいるから。

 


 


それとあわせて思い出すことがある。

「お気持ち表明」という言葉だ。

具体的に何というのを挙げられるほど「お気持ち表明」について知らないのだが、自分は「お気持ち表明」という、誰かが何かものを訴えかける目的でTwitterに長文なりマンガなりを投稿する行為に、皮肉や揶揄として投げかける言葉が嫌いだ。

訴えかける目的のツイートなりマンガなりの内容のいかんはわりあいどうでもいい。極論その内容が嘘であっても良いという。この世界では自分たちはどのようにだって振る舞ってもいい。

それに対して揶揄するのが自分は気に食わなくて、「何か言う」ことに対して抑圧的になることはたいへん良くないことだと思う。

その一方で、ヘイト発言やヘイトスピーチを見かけると絶対にぶっつぶせと思う。発言してはいけないことはもちろんあるし、それを判断するためには人と社会と学問に関わり続けなければいけない。楽なことではないがやってやれないことはない。まあそれはいい。目の前にある言葉が「言ってはいけないこと」なのか「自分の意見と異なること」なのかは考えなくてはいけない。人を傷つけたりしていなければ大抵のことは言っていい。天皇制廃止論は非難されるべきものではないが、人種差別は非難されるべきものだ。そんなことは少し考えればわかる。

「そんなことは少し考えればわかる。」というのは言わなくてもいいことだ。圧をかけるだけの言葉だから。

でも言う。それをあなたは見て苛立って、どこかで非難をする。

それを見ても自分はああそうですかと思って済ます、気分によってはやっぱり苛立つだろう。でも自分はそれに対して何か言おうとは思わない。やっぱりどうしても何かを言い返したいと思ったら、前出の主張をし続けるだろうと思う。それぞれの意見や苛立ちは抑圧されるべきではないから。

そもそもとして「お気持ち表明」という言葉を使って揶揄すること自体も「お気持ち表明」にはならないのだろうか?

と、ここまで書いてふと思ったのは、やっぱり「お気持ち表明」という言葉が生まれること自体、誰かが何かに主張するという行為に対して反感をもっていて、それはカビみたいに広がってコロニーを作り大きな形になった、その表出なのだろう。

そのコロニーでは、タイムラインは自分のきれいで素敵なお庭で、誰かの、自分の意見と異なる主張は、まるでお庭が汚されたように思えるのだろう。たいへん幼稚だと思う。誰かが自分とは異なる意見を持つことなんて、本当は当たり前なのに。みんな意思を持った人間であり、「大衆」という名の大きな動物でもない。あなたのように、そして自分のように。みんなにお気持ちがあり、その時々に表明をするのだ。反省したり異を唱えたりしている。「お気持ち表明」なんて遠回りしたずるい言葉を使わずに、反論をしたければそうすればよいのだ。自分のお庭が汚されたと思ったら、自分の庭なんてないことを思い出せば良い。

 


 


同居人が遅く帰ると言うので、何か買って帰ろうと思った。昼過ぎあたりから煮魚が食べたかったので、ちょっと奮発してブリの切り身を買う。帰って、簡単に煮付けを作る。

食べていると同居人が帰ってきて、ブリは明日のお弁当にすると言う。

起きて、同居人が弁当を作っているのを眺める。小さいお弁当箱から少しだけはみ出したブリの煮付けを見て、押し寿司を思い出し、それはご飯とのバランスは悪いんじゃないかと言ったが、同居人は笑って、そこにきんぴらごぼうを詰めはじめた。

 


 


定期券をなくす。最寄駅で使って、そのままポケットか財布にしまったはずだが見当たらない。まず部屋の中にあるはずなのだ。思い当たるところを探したが、ない。

仕方がないので再発行をしようと思った。

いま、再発行をするのはすこし面倒だ。駅に行って再発行証明書をもらって(その証明書をもらうのにも身分証明書を見せたり定期の情報を書いたり、色々やりとりが必要になる)、後日決まった駅に行ってお金払ってやっぱり身分証明書を見せてやりとりをする。

小銭がとんでいくので、二度となくすものかと思うが、それでもなくなるんだから仕方がない。自らのずぼらさを嘆くが、たぶん数日経てば忘れるだろう。