川原正方

ɐʇɐʞɐsɐɯ ɐɹɐɥɐʍɐʞ

年末感、日録

渚にて』が終盤に近づいてきている。

世間での年末っぽい……わりあい仕事でバタバタしているにもかかわらず、なんだかシーンとした年末年始独特の雰囲気も相まって、本から顔を上げると、いま自分たちは世界の終末に立ち会ってるんじゃないかと勘違いする。

会社でデスク周りを片付けて雑談したり、お金おろさなくちゃなとか考えたりすると、ふとした瞬間に「あれ、もう世界が終わるのに何やってるんだろう」と思う。

別に終わらないのに。

 

 

この間、酔っ払ったおじさんからノリで年末ジャンボを一枚貰った。

同居人にそれを見せて「7億だぞ7億!」みたいな話になって、「2等でも1億5千万か~」とか言ってみる。

戯れに「1億5千万あったら都内に家買えるかな?」と言ってみる。ここなら安いな~とか、やっぱ戸建より分譲マンションかな~とか喋ってると、ふとした瞬間に「いや本当に当たったわけでもないのに何むなしい話をしとんねん」と我に帰る。同居人に「それ言っちゃダメでしょ」と言われる。

 

 

年末感に終末感を感じたのは、もちろん、毎日報道される感染者の数が増加傾向にあることも関係ありますね。

 

 

そういえば先日、MCRという劇団の『女もつらいよ』という芝居を見た。「これ系のジャンル」の長いことやってる人たちらしい、というぼんやりした認識だったが、まあ笑えて面白かった。小劇場でひさびさこんなに笑ったなあ、と思った。つぎ誘われたら多分見に行くと思う。

で、「これ系のジャンル」に抱いていた違和感をさっき突然自分なりに消化できた。

「これ系」というのは、まあ上手には言えないんだけど、煮え切らない青春をどうにかしたいけどできないから大きな声で叫ぶぜ! 的な、冴えない男だけど一生懸命やるぜ! 的なやつで、元気だからタチの悪いエヴァンゲリオンとでも言おうか、名前がついてるのかもしれないけどわからないからもどかしい。

そういうのは自分も思春期のどこかの時点で好きだった気がしていて、でもそこから別のひねくれ方をしてしまったので、そのジャンルに直面はしなかったんだと思う。ジャンプ漫画読まずに浅野いにおとかを読んでた気に食わんガキだったので。

まあそれはいい。それで、『女もつらいよ』のストーリーが、それ系のジャンルのいいとこ取りのような話だった。大まかに言うとこうだ。

 

女が恋人の仕事の内容を知りたい→危ない仕事のようなのでできればやめてほしい→恋人ははぐらかす→それはそれとして女は病気でもうすぐ死ぬ→なんだかんだあって女は恋人に思いの丈をぶつける→恋人がお見舞いに来ないので寂しい→とつぜん来る→恋人「仕事辞めてきた」→♡よかったね♡

 

みたいな感じ。

これ系のジャンルの勝手なイメージが以下。

 

モテない男がいる(概して自分に自信があるのかないのかわからない)→好きな女の子がいる→オレのこと見てほしい! 付き合ってほしい!→いろいろうまくいかない→最後に一言だけ気持ちを伝えたい! もうどうなってもいい!→女の子はその情熱に胸を打たれる→♡よかったね♡

 

たまに、

 

気持ちを伝えたい! もうどうなってもいい!→「は? キモ死ねや」→やり遂げたからよし!

 

みたいな感じになる。『続覗き屋』のアイドルオタクの話みたいなやつ。

で、まあそういうのが好きな人はいいというか、ある種のジャンルとして成立してるね、という感じがある。

ただそういうのを見るたびに、自分が毎回感じる違和感があった。

相手(たいていの場合女の子)を客体化しているのでパワーを込めて好きと伝えたらパワーに免じて付き合ってくれる。それって妄想の成就やストーリー上で作者が自慰をしているんであって、「対話」ではないなと思う(つまり、気持ちを伝えるために本当に必要なプロセスと結果を描いているんだろうか? 本当に必要なのは、恋愛とか欲望の充足とかではなく、他者を尊重しながら「対話」することなんじゃないか? と思う)。そして作者が言いたいことを言わせ、言ってもらいたいことを言わせる、これはある種グロテスクですらある願望の成就だ。そのセリフを言わせるために必要なプロセスを踏んでいるとはいえ、それが実現すること自体が、自分は本当にグロテスクで見るたびにがっかりする。

どうしてすれ違いを解決しなくちゃいけないんだろう?

すれ違って、それを解決できないまま暮らしている。解決することもあるだろうが、しないことの方が多い。もしくは、すれ違わないまま生きる。

他者と向かい合うとき(他者を真剣に理解しようとするとき)、あるいは他者を尊重するとき、「自分」と「他者」の間にある差異という溝は、必ずしも埋めなくてはいけないものではない。

だから、劇の中ですれ違いが解決すると、作者によって世界が平均化させられたり、作者によって支配されたような気持ちになる。

「すれ違い」が「気持ちの届かなさ」だったり、いろいろバリエーションはあるにしても。

 

しかし、まあこれは本当に指向の違いなんだと思う。

自分は「分かり合えない」を前提に始めたくて、あるひとにとってはそうじゃない。

あるいは「分かり合えない」ことを知っているから、その解決を創作物の中で実現させる。

満たされない願望を反映させることは悪いことではないし、よくあることだ。

けど、自分は、こと「対話」や「すれ違い」「分かり合えない」ことに関しては気になってしまうタチなのだなと再認識した。

 

あと「これ系のジャンル」は大体の話が一人称で、想いを伝える側の都合は詳細に記されるけど、伝えられる側の都合はわりあい適当に記される。そういう「キミとボク」の話は、正直好かん。その点『女もつらいよ』は配慮してましたね。ここまでグダグダ言ってるけど、笑える芝居は好きなのでまた観に行きたいですよ。

 

 

今日(12/25)は朝の電車に乗るひとが少なく、駅が空いている。緊急事態宣言がではじめた五月あたりのことを思い出した。ずっとこの空き具合がいいな。

 

 

渚にて』を読了した。

まあ面白かった。解説で「放射能被害に無関係なひとはいない」とあって、執筆年を見るとそういうテーマが生々しくあったのだなと納得する。解説に記されていなかったけど、キリスト教圏で書かれた小説の中で、皆が「最善の手段」として自殺を選択していく描写もある程度ショッキングだったんのではないだろうか、と思ったんだけど、ホロコースト以降だし、自殺が罪とも思えなくなってたんでしょうかね? とか思いながら『トリフィドの時代』読み始めたら終末ものは自殺を選ぶひとが多数派というのが鉄板だったのかな? と思った。

「みんな等しく、数ヶ月後に必ず死ぬ」というシチュエーションでも思考実験みたいな話で、まあそんなシチュエーションはドラマチックにならないわけないだろという感じ。

 

 

渚にて』、コロナが蔓延するこの状況のことも少々考えられる。今だからちょっと特別な読書体験にもなったと思う。没入感が違う。

 

的なこと書いてる書評たまにあるけどさ、素人じゃねーんだから馬鹿みたいなこと書くなよ。木目を見て「ここのひとの顔が! 怨霊の仕業か!」つってるのとなんも変わらねーよ。日記に書け。おれは日記に書いてるからよし。

 

 

ソイという魚をスーパーで見かけて、気になったので買って帰り、煮付にした。

この魚、内臓がすごい臭いね。思わず内臓全部捨てそうになったけど、肝は取っといて軽く湯がいてごま油と塩で食べたよ。

ソイ自体は煮付けたら縮んで固かったけど、しっかり味がして美味しかった。メバル科というだけあって、肉質は似てました。

しかし骨の硬い魚は家で捌くもんじゃないね。包丁の刃が一発でダメになったんじゃないか? また研がなくちゃ。

というわけで同居人の作ってくれた豚汁と、友人がくれた日本酒「*アスタリスク」と共にメリークリスマス。

 

 

朝起きて、ボーッとコーヒー飲みながら過ごして、ようやく朝ごはんを食べる。昨日の豚汁と鮭ご飯を温めて食べた。

で、気づいたんだけど、同居人は汁物(スープや味噌汁類)は具を多めに作るらしい。うっかり具材をたくさん切るとすぐに鍋いっぱいになるので、なんとなく経緯が見えて面白かった。

あるいは豚汁は具を食べるものという感じなのかもしれない。それも、まあ気持ちがわかる。味噌汁の中の豚肉って妙に美味いし。

さて今日も仕事に行くかね。

 

 

昨日よりももっとひとが少ないね笑